6.Motorola Japan (1996~2001)
1996年の5月にソニー本社の人事担当の副社長に電話をして退職を伝え、その後担 当専務や社長などにも電話で退職の意思を伝えた。時期は6月末として米国の自分 の組織にも伝えた。もともとGeneral Magic社の取締役会に出席し、その席で Motorola のセクタープレジデントも出席しており、そのときの会話でソニーを退 職する旨伝えたところ、Motorolaに来ないかとの誘いがあり面接を3回ほど受けて 入社が決定した。面接はフェニックス、フォートワースで行われ最終の面接では夫 婦で招待されてオフィスの壁面にバナーでKaz Imai, Welcome to Texasが掲げられ 歓迎された。いかにもアメリカ的であった。
入社期日は7月1日、ソニーへの最終出社日が6月15日でその足で日本モトロー ラに行きその日付を了承、即、飛行機の切符を渡されて米国の西海岸経由フロリダ で約3ヶ月間の研修、そこはポケベルの開発製造拠点であった。この間、家内の呼 び寄せや、シカゴの本社での研修、Chris Galvinとの面接などがあり、ポケベルの
トップとも何回か面接を受けてから日本へ赴任。
そこでトップからの要請は3つ;
顧客、特にNTT DoCoMoとの関係の修復、
ポケベルの将来の予測の報告
瞬間風速でもいいので二桁のマーケットシェア
これらの命題に取り組んでほしい。
日本モトローラに赴任後、まず取り組んだことは全員の面接を実施、彼らの課題や 何を考えているのかを把握。彼等は負け組みの態度であり自信喪失状態、これはモ トローラの端末の販売が苦戦していることに加えて市場が縮小していることにあっ た。端末の開発も顧客であるNTT DoCoMoから言われることを実行に移すだけで あり、モチベーションが低下していた。顧客への訪問を通じて顧客が何を考えてモ トローラに何を期待しているのかを理解するよう努めた。
そこでせっかくマーケッテイング機能がモトローラ内にあるので新商品の提案をし よう、とスタート。誰しもがそんなことはNTT DoCoMoが了承するはずが無いと 思っていたが、幸運にもこのアイデアが採用 されてモトローラ独自のポケベルが 完成、ヒット商品となり、単年度ではあったがシェア12%を記録、これでひとつの 目標を達成。
NTTDoCoMoとの関係修復は私自身が足蹴無くNTTDoCoMo 本社に通い、少な とも週に1回は顔を出して秘書の人達の認識を上げてもらい、そのうちに社長、副 社長に面会が出来るようになった。信頼があがったところで丁度本社のポケベル担 当責任者のトップが来日し、NTT DoCoMo のトップに面会、ここで関係修復を実 感していただいた。ここまで約3ヶ月かかったがその後は真の意味でトップ同士の 意思の疎通が可能になった。
日本のポケベルの市場動向に関しては残念ながら今後の発展は望めない、減少傾向 は継続し、ユーザーは携帯電話に流れることを報告。市場自体はなくならないが規 模が縮小するので、ビジネスを継続すると最後の端末供給者にななる可能性があり 大幅な赤字が予想できる。これを防止するため早期の撤退を決断して顧客である NTTDoCoMoやNCC に対し て説明すべきと進言、当初なぜ日本だけといった質 問が出たが、そのうちに市場にたいする理解が進み米国のマネージメントが了承。 日本撤退作戦を作成し実行した。
販売縮小のため販売関連部隊の縮小は進めたものの、そのうちに携帯電話ビジネス もみる事になり、技術者や販売関連の人達に業務の変更を、伝え新たにチャレンジ しても らった。
これに伴い、従来から携帯電話をやっていて終戦処理で残っていた人の多くを退職 したもらった、中にはやっと退職してほしいといってもらったという人達までいた。 残っていた人達には本当に可哀想な思いをさせていた。これはモトローラマネージ メントの大きな間違いであった。なぜ早くに伝えることが出来なかったのか。
携帯電話ビジネスへの再進出にあたり、日本市場ではNTT DoCoMoが圧倒的な
シェアを占めていたためDoCoMo向け端末の開発を要請したが、日本独自の標準で あるため技術の再利用ができず却下。この時点でDoCoMoは60%以上のシェアで ありしかも開発時から数量の確約がある大変魅力的なビジネスであったがあきらめ ざるを得なかった。
結果, KDDI向けのCDMAを開発となったが、開発、生産は韓国、販売は日本とい う仕分けで日本の技術者の育成や顧客とのネゴなど問題が山積、それらに加えてソ フトウエアの開発スピードが顧客の要求についていけないことが判明。
紆余曲折があった結果ソフトに関して基本的な機能だけの端末で了承して頂いた。 これにはKDDIの商品の責任者から米国のマネージメントに強く要求してもらった が結果泣き落としとなった。
この時点でモトローラは開発力に関して他社から大きく水をあけられた。
所謂、機能の高度化に関しての乗り遅れ、最も進んでいる日本市場の顧客の期待を 裏切った商品しか出来ないような状況であった。挽回はほぼ不可能。
余談ですがモトローラの知名度はいわゆるコンシューマーでは一部の人が知るのみ であったため本社に相談して広告費を大幅にもらい渋谷に広告サインを設置した。
これは顧客のみならずモトローラ社員のモチベーションの向上に対しても大きな効 果があった。
Motorolaのまとめ
*大きな問題は日本の標準が世界標準からはずれていることであった。したがって 日本向け端末開発は日本市場のみでの販売しか出来ないので開発効率が大変悪い、 しかも新商品の開発競争が激しく要求が高度になりソフト開発が間に合わない。
この課題は日本のモトローラ内のみでの解決は出来ない、したがって高度な携帯電 話市場から撤退の兆候がこの時点ですでに出ていたと思う。
CDMAは世界標準であったが日本市場の要求が高度であり、ソフト開発が追いつけ ない状態が継続、ここでは中途半端な端末となり大変少ないシェアに終わった。
*シカゴ本社では携帯電話の市場が寡占化をたどり、近い将来端末メーカーは数社 に絞り込まれるであろうとの見解から日本のメーカーと何らかの戦略的な関係を模 索するプロジェクトがスタートした。基本的には合併、ジョイント開発、M&Aと いった形が考えられていて日本メーカー全社と接触を持った。1999年から2000年 にかけてであったが、当時のモトローラ携帯関連ビジネスのトップは先見の明が
あったと思う。最終的にアメリカの携帯電話関連のトップから、どこのメーカーと 話を進めるべきかと質問があり、即座にSonyまたはPanasonicと回答。プロジェ クトメンバーもほぼ同意見でそれをChris Galvinに報告。しかし彼の回答は、今の ソニーの社長とは話をしたくないとの事で却下となった。
その後の経緯はご存知とおり、Sonyはエリックソンと合弁、その後解消してソニ ー独自となり、Panasonicは本体に吸収、その後日本市場から撤退も視野に入れて いるとの情報が新聞に掲載された。
またMotorola自体もアジアでのシェアが低下、欧州も然り、高度な端末から一時 撤退、その後スマートフォンで再参入したが思うように進捗せず、分社化、そして Googleに買収された。
Motorolaのマネージメントは先の見通しはよかったが、実際の決断は出来ず機会を 逸し、残念な結末を迎えることになったいい例ではないか。
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